ファンとその呼び名について

最近はてなブログを使うV6ファンが増えているらしい。

初耳!!!!
確かに最近面白い長文を書くV担が増えている気がする(自分も含めなぜか長文を書くジャニオタは大体はてなだ。理由はわからない)。そしてこれも話題になっているが、所謂『ご新規さん』の存在。はまりたてで大きな熱量を持った新規ファンがはまったきっかけを知ったり、初めてV6のCDやDVDを買ったり現場に足を運んだりする様を現在進行形で読むのがとても楽しい。皆、はてなから人気作っていこ!

twitterの広い海を漂って見知らぬV担のbio欄を除いてみると、たまに『新旧コンビ』の文字を目にすることがある。新旧ってなんだろう…コンビってあるくらいだから人かな、と考えていたらどうやら坂本岡田のコンビのことらしい。最年長と最年少だからか。知らなかった。大体、私は知らないことが多すぎるのだ。twitterをはじめた頃、自分もジャニオタな筈なのにあまりに知らない言葉が多すぎて困惑したことがある。その代表格がファンの呼び名。『アラシック』『エイター』『パーナ』『ハイフン』『図書委員』…ファンはただのファンじゃないのか。前2つはグループ名が含まれているからどのファンのことかわかるけど、後の3つは全くわからなかった。
名前をつける、ということはどういうことなのだろう。たとえば、嵐のファンです、と名乗るのではなく『アラシック』です、と名乗ることにどのような差があるのだろう。



名前をつける効果

(以下、便宜的にアラシックを例えに取るが、エイターでもハイフンでも自由に置き換えて欲しい)
まず、アイドルのファンという性質から考えると、一体感を演出する、ファンを囲い込む、のような効果が考えられる。
漠然とした嵐のファンたちという存在より、アラシックという名称があり集団としてのアイデンティティーが確立されている方がなんとなく一体感があり、芸能界のトップを目指そう!とか一緒に盛り上げていこう!みたいに熱くなる、気がする。あとは「アラシックです」と自ら名乗ることにより、なんとなくマインドコントロール的というか、自分が発したり書いたりした言葉や文字から、自分は嵐を熱烈に応援するアラシックという存在なんだ、と常に刷り込んでいるような感じがする。本当のエイターとかパーナさん事件とか狂気じみた発言を目にするからこう感じるのだろうか。
ファンを囲い込む効果はその呼び名がアイドル発信の場合に有効で、世界観の共有みたいなものだろうか。女性アイドルに多い印象で、ジャニーズは基本的にファンが何かのきっかけで自然派生的に名乗るようになったことが多いが、最近はファンの呼び名文化がメジャーになったせいか、昨年デビューしたジャニーズWESTは雑誌などの公式媒体で「ファンを何と呼ぶか?」と問われているのを何度か目にした。ちなみに『ジャスミン』に決めたそうだ。

wikipediaの名前の項にはこうある。
すべての事象には名がある。と言うより、名前がないものは存在を認識できない。
我々は先ず対象に名前を付ける。そのためには対象の概念を明確にし、またそれ以外の事象との区別を持たなければならない。この過程で名前を付けた対象が明確になる。
たとえば、自然観察の際に、まず生き物の名前を覚えることから始めることが多いが、これはそれ自体に価値があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである。(中略)
名前は元々あるものではなく、人間がそれを個別に把握すべき対象として認識した際に与えるものである。(後略)
従来『嵐のファン』として嵐の後ろになんとなく漠然と存在する嵐を応援する人、だった対象が『アラシック』と名乗ることにより主体性を持ち、他のジャニーズファンと明確に差別化を図ろうとする、というところだろうか。
ここまで書いてふと思い出したのは、中根千枝の『タテ社会の人間関係』に出てくる日本人的な『場』である。

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)



『タテ社会の人間関係』とは

超ざっくり説明すると、社会集団を構成する要因には資格と場という2つの原理があって
資格はインドのカースト制度に代表されるような地位、性別や学歴や職業といった、個人を他から区別しうる属性
は○○大学や○○会社や○○村の者、というような資格の相違を問わず、一定の枠によって個人が集団を構成している
そして日本人の集団意識は場を非常に重視している。例えば他人に対して社会的に自分を説明する場合、営業でも研究職でも運転手でも、○○会社の者ですと名乗る、これが資格よりも場を優先するということ。

この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれている。
この表現によく象徴されているように、「会社」は、個人が一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自己にとって客体としての認識ではなく、私の、またわれわれの会社であって、主体化して認識されている。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてであり、全生命のよりどころというようなエモーショナルな要素が濃厚にはいってくる。(p30)
資格の異なる者に同一集団成員としての認識、そしてその妥当性をもたせる方法としては、外部に対して、「われわれ」というグループ意識の強調で、それは外にある同様なグループに対する対抗意識である。そして内部的には「同じグループ成員」という情的な結びつきをもつことである。資格の差別は理性的なものであるから、それを越えるために感情的(エモーショナル)なアプローチが行なわれる。
この感情的アプローチの招来するものは、たえざる人間関係であり、これは往々にしてパーソナルなあらゆる分野(公私をとわず)に人間関係が侵入してくる可能性をもっている。
したがって、個人の行動ばかりでなく、思想、考え方にまで、集団の力がはいり込んでくる。(後略) (p37)

自担のいるグループの話を他のグループのファンの子にするとき、「うちのグループ」とか今風に言うと「自ユニ」「我が軍」とか、言ったことある人多いのでは。少なくとも私は、ある。そもそもアイドルのファンというものは「好き」だからファンなのであり、最初から濃厚な感情的な要素を持っている、いや、感情的な要素しか存在しないのである。ファンの集団に名前をつけるということは、さらに枠*1を強化させ主体化させる儀式のようなものなのではないか。
「思想、考え方にまで、集団の力がはいり込んでくる。」今のところ名前らしきものを持っていない我がV6のファンの間でもこういった傾向はある。例えば「V6は家族のように仲良く、わちゃわちゃした6人が最高」「職人気質でコツコツ磨き上げたパフォーマンスの円熟度合いは他のグループとは違う」「V担は落ち着いてて優しいから○○」例)「〜銀テの奪い合いなんかしない」 みたいな統一見解はなんとなくある気がする。*2 これらは事実であり間違ってはいないのだけどなんとなくはみ出す人もいないし、もっと違う見方というか、もっと自由な「好き」があってもいいと思う。*3
引き合いに出して申し訳ないが、パーナさん事件なんかその代表的なやつだと思う。「仲間」とするパーナさんが危機に瀕しているという怪情報などに対し、無茶苦茶な要求が時間が経つに連れてどんどんエスカレートしたり、「このツイートをリツイートしないやつも加害者と同じ」という謎論法を繰り出してみたり、挙句に「この7月27日をジャニオタ団結の日にしましょう!各グループのロゴ入りヘッダー作りました!」みたいな奴までわいてきたり。勿論この騒動に加担しているのは比較的若い子が多かったので、若い頃特有の正義感とか血気盛んなお祭り騒ぎという面もあるけれど、これも偶然に起こったことをきっかけとした感情的なアプローチだったのでは、と思う。


この本は1967年に刊行されたもので、その時代に生まれていないジャニーズファンが多いにも関わらず、こうして日本人らしい集団を今も脈々と作っていると思うと、外見や環境がどんなに変化したとしても核にある単一民族の特性は変わることがないなんてちょっと滑稽だ。
『タテ社会の人間関係』と銘打っているだけあって、改めて読み返すと新規や古参の関係性や担降りともなんとなく重なる部分もあったのだが、それはまたの機会に。



参考リンク

*1:経済的要素による「家」や企業組織などの外的な条件

*2:まるで勘違いだったらごめん

*3:V担の場合はTwitter人口も少ないから偏ってるのかもしれない